外科医の資質

今日、後輩が時間外労働の申請用紙を月100時間を超えないように書き換えていた。

私もかつて産業医面談に呼ばれたり教授に何か言われるのが面倒で同じことをしていた。

医者界隈ではよくある光景だが、これは一般社会では普通なのだろうか?

 

院内長時間労働者の面談を担当しているという精神科医の方が

「大体面談対象になるのは心臓血管外科、脳外科、消化器外科の医者で、

月150時間の残業をしているのにも関わらず、へっちゃらで、

早く手術に戻っていいかと聞いてくるくらいだ」(言い回しは違う)

SNSに投稿していた。

その投稿に対して、

外科医は体力も知力もとんでもなく高いし、

やる気のある人には働きたいだけ働いてもらおう みたいなコメントがいくつかついていた。

 

この投稿と、やり取りを見て、私は複雑な心境になった。

確かに、一部の外科医や、昭和の外科医は体力がえげつないほどに高く、

疲労というものを知らないのか、と思うほどに元気である。

手術終わりに夜通し飲み会をしたり、ランニングしたりする人も確かにいる。

自分の仕事や手術が好きでたまらないから、いくら働いても苦しくない、という人も一部にはいるだろうことは否定しない。

 

でもそれは決して全てではない。

仕事が楽しくて仕方がなかったり、体力が異常に高いために耐えられる場合以外にも、

産業医面談で上記のような発言をする理由は他にもある。

それは、診療科の中では普通の働き方で、自分も同僚や上司も働きすぎであると思っていないパターンである。

月150時間の残業が特別ではなくて、周りの全員がそのくらい働いている場合、

自分だけ休むわけにはいかない、と思うのが人間というものである。

自分で自分を追い込む事にもなるし、上司からの評判が落ちないように、頑張るしかない状態になっていたりする。

働きすぎて感覚が麻痺していて、自分がもう限界を突破していることがわからない人もいる。

 

現に、私は長時間労働の末に休職したことがあるが、

休む直前には、「ここで休んだら終わりだ」と心から思っていたし、

実際、復職した後は医局の上司からは腫れ物扱いされた(ような気がする)し、出世街道からはすっかり外れてしまった。

 

産業医面談に呼ばれちゃったんですけど、テキトーに大丈夫っすって言っときました」

と上司に言う先輩も見たことがある。

長時間労働が常態化している職場では、それが普通で、美徳になってしまっているし、

大変なことに耐えられるのがかっこいいみたいな価値観が横行しているので、

「疲れました。少し休みます」なんて恥ずかしくていえないのだ。

 

外科医には生存者バイアスがかかっているので、大体長時間労働を耐えてきた人たちが指導医になっていて、心のどこかでは若者は長時間労働に耐えて研鑽すべきだと思っている。

私も研鑽は必要だとは思うけれど、月150−200時間の残業をしていると流石に家にも帰れないし、食事だってまともなものを食べられないし何のために生きているかわからなくなった。

きっとそう思うのは私だけではなくて、周りの外科医で専門医をとった後に医局をやめている人も何人もいるし、専攻医で蒸発してしまったり転科した人も定期的に出ている。

そもそも外科系診療科を専攻する研修医自体が減っているのに、さらに今の時代に昭和のような超長時間労働を強いるなら辞める人も出て、外科医として働ける人が絶対に足らなくなる。

(ちなみにヨーロッパでは外科医だって長時間労働はしないらしい。)

 

医局も医局で、結局長時間労働を避けて通れないなら初期研修医に説明するべきなのだが、

勧誘でそんなことを言おうものなら誰も入局してくれないので言わない。

言い方は悪いが、馬車馬のように働かされて、潰れたら使い捨てにされる。

潰れた時に、医局は責任をとってくれない。(明らかに違法な過労死でもない限り)

 

医者も、そうでない人も、外科医を神格化したがるのだなとSNSを見ていて思ったけれど、

外科医だって人間なので、全員が全員体力お化けなわけではない。

体力お化けであることが外科医の資質なのか、と言われたらどうなんだろう。

かつてはそうだったのかもしれない。

しかし、これからの日本で外科系の医療を存続させるためには、昭和の働き方ができる数少ない超超ハイパードクターに全てを任せるだけでは無理で、普通の外科医が普通に人としても生きていけるような社会である必要があるのではなかろうか。

 

女が医者になるということ

私は一応女性医師である。

あまり性別で区別して話をするのは好きではないが、

女性が医者になる時に起こる独特の事象は存在すると思っている。

 

受験生の時には、性別で何かが変わるだなんて本当に微塵も思っていなかった。

私は世間知らずの幸せ者だった。

知らない間に試験の点数を引かれたりはしていたのかもしれないが、

(女子学生・多郎生の入試点数減点騒ぎはちょうど私が入学した頃の出来事である)

気がつくこともないので考えもしなかった。

 

高校生の頃から若干周りから浮いてはいたが、

勉強のできる男子生徒も同様に浮き気味ではあったし、

私の性格自体も変わっているので、性別のせいだとは特段思っていなかった。

 

そもそも子供のことから女性性が私には足らない。

プリンセスが好きだったり、可愛らしい格好をしたいという願望もないし、

化粧をするなどして異性から見て魅力的になろうとすることもない。

アイドルやらモデルやらにも興味がない。

周りの同級生がそういう話ばかりするので、全然ついていけないし楽しくないしで

ずっと友達は少なかった。同級生との会話の中に私の居場所は基本的になかった。

(別に話の合わない人と友達になりたいとも思っていなかった)

大学の時にも、男女分け隔てなく話はできたが、それ以上に深い関係を築くことはなかった。

なので、私は男性が女性をどういう目で見ているか、ということに対する免疫が著しく足らない状態で社会人となってしまったし、

女性が社会でどういう立ち位置であるか、もよく考えずにいた。

 

社会に出て、男女で分けられる場面、女性というグループに入れられて勝手に解釈されることが多いことにまず驚いた。

女性医師は増えてきたとはいえ、まだまだ男性医師の方が多い。

医者の集まりに行くと男性7−8割、女性2ー3割くらいのことが普通なように思う。

研修会や医局の中で、マイノリティの女性は女性だからというただそれだけの理由で仲良くする、一緒に行動することを強要される傾向にある。

女医だって個人によって色々な人がいるので、私のような変人もいるし、女性性の高い人もいる。

染色体がXXだという以外に共通点がない人と、業務上必要な以上に一緒にいるのは私のような変人にとっては難しい。それならいっそ1人の方が何倍も楽である。

 

続いて、中年男性が仕事中ですらいかに性欲を切り離すことができないのか。ということに辟易した。

同年代の男性医師は、私のような芋っぽい女医のことは女性としては扱わないので、フラットに接することができてこちらとしても気が楽であるが、

中年男性方からすると、染色体がXXで若ければなんでもいいらしく、

彼らの中で理想化された女性としての立ち居振る舞いを色々と強要されることが多々ある。

大体において、若年女性は、穏やかににこにこしていて、男性の話に「すごいですね」と感心して、男性よりも優秀でないことが期待されている。

お茶やコーヒーを淹れろとは言われないが、飲み会のお酌は女の仕事だといまだに思われているし、「女の子がいると場が華やいでいいね」などとのたまう。

女性が近くにいるとそれだけでなんだか浮き足立っている中年男性もいる。

女性の中には、チヤホヤされて嬉しい人もいるとは思うので、そういう人にとってはこういう中年男性はいい人なのかもしれないが、

女性であることに価値を見出していない私からすれば、気色悪いの一言である。

女だからって甘やかされなくて結構だ、と思ってしまう。

働き始めて数年は、中年男性の機嫌を損ねないように期待されていることをしようと努めていたが、我慢の限界に達して、必要以上に優しくすることはやめた。

 

さらに、働き始めると女はあまり期待されていないということに気がついた。

特に、外科医の世界では、大っぴらには言わないものの

「女のくせに外科医になるなんて生意気なやつだ」と思っているのが隠しきれていない大先輩がちらほらいる。

確かに体力は同年代の男性と比べたらどうしても劣るので、72時間寝ずに働くなどということは残念ながらできない。

しかし、それを除けば頭脳や手術技術の点では特に男性に引けをとっているとは思わない。

当直だって、救急当番だってやってはいる。できることだって昔よりは増えた。

ただ無尽蔵に働けるかどうか、という点で男性に勝つことはできなくて結果的に

フラットな視点で女性が出世頭になることは難しい世界だ、と感じる。

今の私たちの狭い狭い業界で出世していっている女性がいないかといえば、もちろんいるけれど、

男女共同参画事業の一環だったり、子育て女医の宣伝のためだったり、

女性が活躍していることを宣伝するための要素が多少なりともあることも少なくない。

(勿論本人たちが一生懸命努力して働いて勝ち取った結果であることは言うまでもないが。)

 

外科医界隈の女性はどちらかというと負けん気が強くて仕事と結婚系の方が多いとは思うが、

外科医界隈でない女医さんたちはもっと女性としての人生についてよく考えている、

という事に遅ればせながらあるとき気がついた。

夫も医者でメジャー科なので自分はマイナー科に、持ち患者のいない麻酔科や放射線科に、と

自分の興味のあることを諦めている女医さんがたくさんいる。

当時の私はその感覚が全くわからなかったし、今もわからないけれど、

医者の世界でも、夫に合わせて妻がキャリアを制限するのは珍しいことではない。

逆のパターンは聞いたことがない。

家庭の事情で諦めざるを得ない人もいるし、

そもそもQOL重視で診療科を選ぶ人もいるのでなんともいえないが、

女医自身にも、医者になったからといって女性としての人生は他の職業の人と一緒、

と考えている人の方が多いのだなあとやっと気がついた。

(私は医者になると決めた時点で、結婚して子供を持つという選択肢はどこかにおいてきてしまった、というか、結婚したり子供を持つことはないだろうと思ったので1人で身をたてる必要があり医者になった側面もあるといった方が正しい)

さらに、私は中年男性の女性チヤホヤは気分悪いと思ってしまうたちだが、

それを利用してのしあがろうとするハイエナのような女医さんもいて驚いた。

本当に、染色体以外には共通点のない人なんだな。と

 

女性であるだけではなくて、童顔なせいもあるのかもしれないが、

医者として大切な「頼り甲斐」という項目にも女性であることはやや影響する。

今ではだいぶ減ったが、特に高齢男性の患者さんには「若い女が担当医で大丈夫なのか」と言われたり「私の主治医がいつになってもこない」(主治医が男性だと勝手に思い込んでいるので回診していても看護師だと思われている)と言われたりしたことが何回かある。

看護師だと思われて呼び止められて、「看護師さんに確認してください」とお願いすると、

医者だとわかって急に態度を変える方もまあまあいる。

看護師さんに間違われなくても、実年齢よりも若く見られて研修医に間違われることも結構ある。

せめて頼れる医者感を出そうと、白衣を着て自信ありげな話し方をするようには心がけている。

他科の中年男性医師と話す時は最悪で、偉そうな図々しい態度で出られるとこちらは言い返せないし、言うことを聞かざるを得なくなる。

若い女だからと舐められているなと感じることは多い。

 

どこの世界でも同じだとは思う。

むしろ、資格仕事であるだけ医者界隈ではましなはずなのだが、

それでも、働き始めてから色々な場面で自分は女性なんだと自覚させられる場面がたくさんあった。

 

もし今と同じ人生をやり直すなら、男になりたい。

 

 

 

 

医者である意味

医者の中には、

自分が医者であることを自分から言う人と、

必要がなければ言わない人がいる。

私は後者だ。

特に医療従事者以外の方に医者であることがバレると、

医者という色眼鏡を通してしか接してもらえなくなるからだ。

特に女医ともなると、

バレるとまず引かれるし、

話し方が変わるし、

健康相談が始まることもある。

 

病院外で知り合った人とは、

そのコミュニティの話を普通にしたい。

ただそれだけだ。

 

自分が医者であることに意味をどのくらい見出しているかは人によるんだろう。

場面によっても変わるかもしれない。

 

私にとって医者であることの意味がどのくらい大きいか。

ちょうど考えている。

 

医者あるあるの一つに、

研究医になるわけでもないのに博士課程に進むというものがある。

私も今その段階にあり、ありがたいことに大学院のことに専念させてもらっている。

医者として働いている時間は、外勤と当直の時だけである。

手術もカテーテルもない。持ち患者もいない。

 

医局の他の人に引け目はやや感じるものの、

それを除けば嫌なことがほとんどない。

手術から離れて思うのは、別にやらなくていいならそれでも全然大丈夫ということだ。

救急とか急変で叩き起こされることもないし、

休みの日に患者さんの方が気にかかっておちおち休んでいられないということもない。

 

やっぱり、外科医には向いてないのか。

そうだろうな。

 

外来はそこまで嫌いではなくて、

むしろ多少なりとも医者として働いている方が自分のスキルを世の中に還元できていることに満足できるので、

私にとって医者であることはまだ意味があるが、

外科医であることにはあまり意味がない。

ということなのかもしれない。

 

緊急手術となれば目を輝かせ、血が騒ぐ、

天性の外科医とは土俵が違うのだろう。

それが知れただけでも十分だ。

印象的な言葉

2人の患者さんから同じ日に言われた印象的な言葉。

 

1人は30代の方で、

一時は命も危険な状態で人工呼吸器やら色々やったが、時間をかけて少しずつ、でも着実に良くなって来ていた。

「入院が長くなって来たので、疲れていませんか?」と言う私に対して、

「ご飯が自分で食べられるだけで幸せです。がんばります。」

と、笑顔で答えてくれた。

こちらも泣くほど嬉しかった。

この方は、2ヶ月後くらいに歩いて退院した。

 

もう1人は40代の方で、

気がついた時は癌が相当悪くなっていて、もう手がつけられない状態だった。

お母さんとワンちゃんと暮らしていて、

入院中も2人のことをずっと心配していた。

ぱっと見コワモテなのに、回診に行くとよくペンギンの動画を見ていた。

一時帰宅して病院に戻って来て、

「おうちはどうでしたか?」と聞いたら、

「あと10年は生きたかった」

と言われ、号泣された。

私は泣いてはいけないと、我慢するのに必死で、

なんと声をかけていいかもわからず、

「私たちがみんな力になりますから、いつでも言ってください」

としか言えなかった。

この方は程なくして亡くなった。

私はなんの力にもなれなかった。

 

あの日から2年くらい経つ。

いつまでも忘れないだろうと思う。

忘れずに心に留めておけるのが私の医者としての強みでもあるのだけど、

大きな弱さでもあると自覚している。

医療者として期待されることに応え続けるのには、精神力も、体力も必要だ。

 

 

夢と幸せ

子供の頃の夢が叶う人は、20%くらいらしい。

5人に1人。多いのか少ないのかわからないけど、少なくとも多数派ではないということだ。

医者になった人は大体が子供の頃の夢を叶えられたということになるだろう。

(一部には家の都合で嫌々なった人もいるかもしれないし、

医者になった人の中には子供の頃はスポーツ選手になりたかった人もいるかもしれないが)

 

私の周りには必然的に医者がたくさんいるが、

夢を叶えられたら人は幸せかというとそうでもなさそうである。

結構な割合の同僚が、忙しさや責任の重さに疲弊し、カリカリ、イライラしている。

家族との時間が取れないとぼやく人や、家族に見放されている人、

子供の受験事情で競争している人、

医局で偉くなるために周りを蹴落とすことに必死な人、

不倫に走る人など色々である。

 

他の職業の人に比べたら経済的に余裕があるはずなのだろうが、

だからと言って余裕のあるおおらかな人ばかりというわけでもない。

 

忙しすぎて、他のことを考える余裕もないし、

働かないと家族を養えないしで、一心不乱に働かざるを得なくなっている人が多い気がする。

 

こういう点では普通の会社員とあまり変わらないかもしれない。

むしろ会社員だった父は週末は家で大リーグをゴロゴロしながらみていたし、

夜は上機嫌にお酒を飲んでいたことを考えると、

私の父の方がよほど人生を満喫していそうである。

 

医局の先輩で1人だけすごく幸せそうな人がいて、

仕事はそこそこに家族との時間を大切にすることに全力を注いでいた。

 

医療関係者でない知り合いの中で幸せそうな人は大概

趣味が仕事になった人だったり、趣味を大切にしている。

 

私自身、幸せを感じるのは

金木犀の香りに秋の訪れを感じたり、

ふと今日の空は綺麗だなと思ったり、

今日もご飯は美味しいなと思ったり。

小さいことで十分で、別に人に自慢できるような大それたものがある必要はない。

 

幸せというのは物事の受け止め方の問題だから

夢を叶えたからといって幸せとも限らないし、

夢が叶わなかったからといって不幸とも限らないんだろう。

むしろ、余裕があることの方が幸せのためには大切なのかもしれない。

 

 

 

医者になって嬉しかったこと

 

医者のやりがいはやはり、

感謝されることにある。

お金や差し入れなんてもちろんいらないし、

(私ならそれで対応変わるような奴に家族を任せたいと思わない)

面と向かって言われなくてもいいけれど、

医者もやっぱり人間なので、

改まってありがとうと言われたり、お手紙をいただくととても嬉しい。

 

医者にもよるだろうが、私は過去患者さんからいただいた手紙は大切に保管して自分の机に置いてあり、疲れた時や落ち込んだ時に見返している。

 

時折、自分の予想を遥かに超えて感謝してくださる方がいて、すごく印象に残っている。

1人は緊急手術をした方で入院中何回も手紙を書いてくださり、

退院後には元気になった写真を送ってくださった。

 

もうは1人は、残念ながら末期がんがあって亡くなられたので私はほとんど何もできていないのに、

最期までみてもらってありがとうという手紙をいただいた。

 

お二人に限らず、患者さんやご家族からお手紙をいただくととても温かい気持ちになる。

こんなことがあると、もう少し頑張ってみるかと思う。

人間ていうのは意外と簡単なものだ。

 

手書きの手紙にはパワーがある。

ほんとに何かを伝えたいときは手書きの手紙がいい。

全ての道は繋がっている

今の仕事が向いていないと思い始めてから早いもので5年以上経つ。

続けていれば慣れてくるだろうとも思っていたし、

給与水準を保つためには資格を取って続けた方が良いとはわかっていたのでなんとか耐えて現在に至る。

 

そろそろ我慢の限界なのでそのうちやめることになるだろうとは思う。

どうせやめるなら始めなければ良かったのではないか。この数年間はなんだったのか。

と思うこともあるのだが、

よくよく考えれば、向いてないのがわかったのはやってみたからであるし、

今の仕事を続けていたからこその考えや出会いもあったので、

全て時間の無駄であったということはないのだろう。

 

人生は選択の連続で、

分岐する時があったっていい。

人から見て順風満帆なことに意味などないし、

死ぬ時は1人なのだから。

 

私の選んだ道はずっと繋がっている。